ぼくらのパシフィック・リム
追いかけて、見つけて…〜エクスペンダブルズ2〜
何かを選んで、何者かになる。〜アイアン・ジャイアント〜
今更だけど、アイアン・ジャイアントです。
そう、あの無骨な鉄のかたまりアイアン・ジャイアント。
やっぱり泣いちゃうアイアン・ジャイアントです。
たまらんですな。こういう物語。
普段のんべんだらりと生きていると、今の自分が自分の
選択によって出来ていることを忘れてしまうけど、
今の自分はどうしようもなく、自分の選択から出来ているわけで、
「いまのすべては 過去のすべて」(かぐや姫の物語より)なのです。
それを思い出させてくれるのが、この「アイアン・ジャイアント」
宇宙からやってきた謎のロボットが、少年との交流を通して、
様々なことを知り、学んで行く。
生き物が死ぬということ、死ぬと悲しいということ、
だから、守りたいという気持ち。
自分に何が出来て、何をしたいのか、どんなものになりたいのか。
とてもテンポよく、スムーズに、人によっては物足りないと
思うくらい王道なストーリーが展開されていく中で、ジャイアントは
学んでいきます。
そして、ジャイアントは、ついに自分が何者になりたいかを選び取ります。
ただ、その選択は自分の大事なものと引き換えでした。
わたし、こういう話にめっぽう弱いのです。
めちゃくちゃ感動します。
何かを選ぶために何かを諦める。
でも、自分が進むためにはそうするしかない。
そういう物語に私の涙腺は決壊します。
たぶん、最初に泣いたアニメは「ドラえもん のび太の鉄人兵団」ですが、
あの映画でのリルルの最後の選択で、今でも号泣します。
単なる自己犠牲ではなく、自分が自分であるために、
選択するということに意志のある者としての、尊さとせつなさを
感じるのです。
何かを始めたいけど、始められない。
何かを変えなきゃいけないけど、変えられない。
でも、自分は自分として生きていきたい。
そんな風に感じさせてくれる作品です。
WC?〜私は何色なのか?〜 PSYCO-PASS2最終回
自分は何色なんだろう?
この「PSYCO-PASS」ってアニメを観ているといつも考える。
誰かに自分の色を決めてもらえるなんて、すごく楽だろうな。とも。
シビュラシステムの下の社会では、自分について問う必要も無く
全てがシステムによって判断される。自分がどんな人間かも、自分の将来すらも。
誰かにですらなく、システムによって。
自分には及びつかないもの、という意味では神様と同義だ。
現実では神様に自分を判断してもらうことなんて、できない。
(一部には判断された人もいるかもしれないけど・・・)
自分とは何者なのだろう?
人間として、ごく当たり前で、自分を生きようとする人間なら当然の問い。
この問いに答えようとし、自分で答えを見つけようとしたという意味で、
「PSYCO-PASS2」において、一番私たちに近い登場人物は鹿矛囲だった。
だから、私は一番鹿矛囲に共感した。
このアニメ、実は主人公であるはずの朱ちゃんたちの役目は
狂言回しにしかすぎない。基本的に起きる事件に対して
何も出来ない。ただ、鹿矛囲の起こした事件を分析し、追跡するだけ。
誰かと戦っているわけではない。
逮捕するために、戦略を立てて行動するということも凄く少ない。
何かと戦い、ストーリーを進めるのは、あくまで鹿矛囲。
朱ちゃんは何も変わらない。2期で公安のメンバーはほんとに
何も変わらない。
自分について考え、答えを探し、戦ったという意味で
このアニメの主人公は間違いなく鹿矛囲だった。
あと、忘れてはいけないのはシビュラ。
実はシビュラシステムも進化のために、自分を問い続け、
答えを探そうとしている。貪欲なシステムだ、ほんとに。
全能のパラドクス、という話が出てくるけど、シビュラ自体は
自分が全能でないことをよく知っている。だから、自分に無い
ものを求めて、自分に取り込むもうとする。
人間を支配するシステムというと、不変のものとして描かれがちだけど
このアニメにおいては、シビュラが一番人間的で、変化しようとしている。
他の人間たちがシステムに支配されることによって、
変化する必要がなくなったことと対比するとすごく面白い。
変化を常に求めるシステムと変化を求めなくなった人間。
そして、その社会を問い続けた人間。
私のとって「PSYCO-PASS2」は、そんなものたちのドラマだった。
1月はいよいよ劇場版が公開。
公安のメンバーの大活躍を期待している。
木曜の夜、四月は君の嘘。
やっぱりそれは「絵」が「動く」ことにあるのであって、
キャラクターデザインがかわいいとか、ストーリー展開が
どうとかではないような気がするのです。
今期観ているアニメで一番気持ちいいのが「四月は君の嘘」
演奏シーンの指の動き、体の使い方。
よく演奏を観ている人が描いたのか、すごくタイミングがいい。
曲とキャラクターの動きが一致していて、それってつまり、
まさに登場人物が演奏しているってことに他ならない。
止め絵で演奏だけを流す、という表現では、登場人物が演奏していることを
伝えられない。
想像はできるけど、画面からそれが伝わってくることはない。
曲を聴きながら絵を観るのなら、それはマンガでも出来ること。
アニメでやる必要は無い。
だいたい、マンガは自分で時間を操作して楽しめる娯楽だから、
アニメのような時間の操作性のない娯楽とは基本的に全然違う。
「絵」が「動く」アニメだからこそできる表現として、この
アニメの演奏シーンは飛び抜けて気持ちがいい。
第2話のヒロインの演奏シーンには本当に驚いた。
本当にキャラクターが演奏していて、ストーリーだとか
演出上の音楽からではなくて、感動した。
その感動はひとりの表現者としてのキャラクターが、
生み出したものだ。
誰かに描かれた「絵」ではなくて、あの世界に生きる一人の
女の子が表現したものだ。あのシーンを観て(もし小さい子が
観ていたら)「わたしもヴァイオリニストになる!」という子が
いても不思議ではないと思う。
まさに、命をふきこまれたもの、としてのアニメーションだから
できた表現があのシーンにはある。
あれがアニメの気持ちよさなのです。
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すれ違いトランスレーション
初めて見たのは、高校生か大学生の時だったかな。
そのときは、おじさんが知らない国に来て、
お互い知らない国に来た同士の女の子とイチャイチャする、って
話だと思っていた。
最近、観る機会があって久しぶりに観た。
全然違った。感じることも、考えることも、一つ一つのシーンから
見えることも。
一番、「ああ、この場面すごいな」と思ったのは主人公が
奥さんに電話をかけるシーン。
何でも無い会話。むしろ何でも無い会話をしたかったから
電話したんだろうけど、電話を切ったあとに主人公がこうつぶやく。
「電話するんじゃなかった」
ここに、猛烈に共感した。
寂しさを紛らわそうとして、余計に寂しくなることって
よくある。
特に、一人の夜に誰かと話したくて、電話したり、ラインしたり
何となくコミュニケーションを取ったあと。
一人でビール飲んで、映画観て、さて寝るか、って思う瞬間。
自分を満たそうとして、結局、空しさだけが残るとき。
後悔というほどのことでもない。
ただ、「ああ、空しいなぁ」って思うだけ。
満たされている、って思っていたら実はそんなこともない。
「電話するんじゃなかった」
この一言に自分の気持ちに気づけなかった男のすれ違い。
空しさを感じてしまう。
知らない国でえんえんと繰り返す、すれ違い。
主人公もヒロインも自分の居場所と思っていたところに
違和感ばかり感じてしまって、空しさばかりが募って行く。
そんな違和感にひどく共感した。
だからかな、ラストシーンで、あの雑踏の中で、
確かなものは何もない状況の中なのに、あの二人がやたらと
安心してるように感じる。
正直、あのシーンは「うらやましい」。
居場所を見つけた二人。ロスト・イン・トランスレーションの
中で出会い、触れ合った二人。
そんな二人がとてもうらやましく思えた。
何年か振りにみた「ロスト・イン・トランスレーション」
僕にとってそんな映画になっていた。
ちなみに、藤井隆が出ていたのも、なんかすごく
なつかしかった(笑)